熊瀬川王子(くませがわおうじ)は、小広峠を下って熊瀬川をわたり、草鞋峠へ登る道の傍らにある。地名としての熊瀬川は、『承元参詣記』5月1日の条で、熊瀬川で昼食を取ったという記述である。『寛喜参詣記』では、11月5日に近露を発ち、やはり熊瀬川で昼食をとったと述べられている。
しかし、「熊背川王子」の名が見出される史料はわずかに『熊野縁起』1篇に過ぎない。また、王子間の平均的な距離は2kmから3kmほどあるが、小広王子からの距離はせいぜい1kmほどしかなく、設立年代も含めて疑問が残る。
熊瀬川とはもともと、小広峠一帯を源流域とする谷川だが、同時に草鞋峠の登り口一帯を指す地名であって、その旨が1739年(元文4年)の『熊野めぐり』に明言されている。また、『続風土記』では「小名熊瀬河は小広峠にあり」としている。これらの史料からすると、小広王子と熊瀬川王子とは同一である、あるいは、そもそも熊瀬川王子は存在しなかったとする、可能性を指摘することが出来る。
岩神王子(いわがみおうじ)は、中辺路の難所として知られた岩神峠にたたずんでいる。
熊瀬川をわたって草鞋峠を越え、そこから坂道を下って、栃ノ河(とちのごう、または「栃の川」とも)の河原にたどりつく。この栃ノ河は付近に栃の木が多かったことから名づけられたといい、『中右記』にも「都千の谷(とちのたに)」なる記述があらわれている。
江戸時代頃から、この谷を挟んで両側の峠への坂をそれぞれ女坂(草鞋峠側)、男坂(岩神峠側)、両方を合わせて女夫(めおと)坂と呼ぶようになり、これにちなんで河原にあった茶屋は仲人茶屋と称されたという。江戸時代後期にここを旅した文人の関心を惹いたようである。栃ノ河の河原から、ところどころに石畳の残された男坂を登ると、小さな切通し状の峠の北側に王子址がある。
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『中右記』10月25日の条には、「石上の多介(いしがみのたわ)」の王子に参拝したとの記述がある。この時、近くに地方から熊野詣に参る途中の盲者がうずくまっており、宗忠は食料を与えたと述べている。
王子の名は『愚記』には「イハ神」、『建保御幸記』の参詣記には「石神」とあり、岩神の表記が定着するのは江戸時代以降のことである。江戸時代中期、享保・元文年間の頃までは茅葺の小祠が祀られていたが、寛政の頃には破損して扉も無く、囲い板も失われていた。『続風土記』が編纂された江戸時代後期には、社も印も無い旧址と化しているにもかかわらず、毎年祭日になると神酒が供えられていたと述べられている。
明治期になってからの合祀廃絶も早く、1877年(明治10年)に湯川王子(次述)に合祀されたことに加え、峠道が廃道になったことから長らく所在地が不明になっていた。しかし、1965年(昭和40年)に道湯川林道が開かれて、近辺の山林へのアクセスが容易になったことで、峠越えの旧道が確認され、次いで1960年代末頃から西律の調査[西 1987:39-44]や中辺路町の関係者の努力により王子の位置が明らかにされたものである。
所在地 田辺市中辺路町道湯川岩神222
湯川王子 [編集]
湯川王子(ゆかわおうじ)は、岩神峠のふもと、湯川川の源流域の谷間にある。『為房参詣記』は、三階(みこし、現在の三越峠)の手前に内湯川(うちゆかわ)なる地名を記している。王子の名の初見は、『愚記』の藤原定家の参詣記にある「湯河王子」、『承元参詣記』にある「湯川王子」の記述であり、このころに湯川王子の名が定着したと見られる。参詣の途上、宿泊や休憩をすることが多く、皇族・貴紳の宿所が設けられた。
湯川一帯は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に威勢を誇った湯川氏の発祥の地とする伝承があり、1427年(応永34年)に足利義満の側室・北野殿が参詣した際には、奥湯川氏を名乗る豪族の一党が兵を従えて接遇を行っている。
江戸時代には、本宮の湯川(下湯川村)と区別するために道湯川村(どうゆかわむら)と呼ばれ、王子は若一王子社として祀られた。明治期には王子神社と呼ばれ、住人たちの氏神であったが、明治末年に社殿を残して金毘羅神社(元・近野神社)に合祀された。道湯川村はもともと山中の小集落であった。国道311号線が三越峠の険路を避けて敷かれたことで、交通路から取り残されたこともあって住人の退去が進み、1956年(昭和31年)には無住の地となった。現社殿は、1983年(昭和58年)に再建されたものであり、以来、旧住人たちによる湯川会が祭祀を執り行っている。